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1905年 | ラウリ・ラパラ生誕 | |||||
1928年 | ラウリ・ラパラ結婚 | |||||
1930年代 | 漁のためにルアー作りをはじめる | |||||
1929年からの「世界恐慌」もあり、暮らしは非常に貧しいものだった。 家族や生活の為、様々な工夫を漁に活かし、 嵐の中でもボートを漕ぎ続けるラウリの姿があった。 |
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1936年 | ファースト・ラパラの完成 | |
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漁師生活から学んだ経験を生かし、コルクに銀紙を巻きつけた ファースト・ラパラの完成。驚くべき釣果をもたらしたこのルアーは、 オリジナルフローターの原型になった。 |
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1939年 | ソ連×フィンランドの「冬戦争」勃発 | |||||
戦争により、コルクやバルサの調達が難しくなり、 松の皮でルアーを製作。 |
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1940年代 | 兵役とラパラの能力の証明 | |||||
ラウリ・ラパラ兵役に就く。 当時、前線の食料調達は、爆薬を用いての魚の捕獲が主だったが ラウリはルアーを用いて驚くべき漁獲量を証明。 兵役を終える頃には、この噂がフィンランド全体に広がる。 |
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ルアー職人への道 | ||||||
噂が噂を呼び、ラウリの元にルアーの注文が殺到。 息子たちと共に本格的にルアーの生産がはじまる。 |
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1952年 | ヘルシンキオリンピックと見本市 | |||||
釣り好きのアメリカ人選手が釣具店からラパラをお土産に購入。 同時期に開催された見本市での展示から評判になる。 これを機に様々な形で北米にラパラが浸透していく。 |
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1959年 | ラパラ販売会社「ノーマーク社」の設立 | |||||
ラパラに魅せられたアメリカ人バイヤー、ロン・ウェーバーらにより 「ノーマーク社」設立。代理店契約を結ぶ。 |
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1962年 | 女優マリリン・モンローを特集した「LIFE誌」に ラパラの記事が同時掲載。 |
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知名度が飛躍的に伸び、300万個のバックオーダーを抱える。 第一次ラパラ・フィーバー。 |
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1965年 | カウントダウン発表 | |||||
永久定番と呼ばれるカウントダウンの発表。 ラウリの四男カウコが水難事故で死去。 深い悲しみに暮れるラウリを、息子であるエスコ・リスト・エンショの 三兄弟が盛り立てる。 |
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1974年 | ラウリ・ラパラ死去 | |||||
1982年 | シャッドラップ発表と第二次ラパラ・フィーバー | |||||
ラウリ・ラパラ最後の作品「シャッドラップ」発表。 35万個がソールドアウトし、100万個のバックオーダーを抱える。 品薄状態が続くと、湖畔のベイトショップでは有料で シャッドラップのレンタルが発生。 第二次ラパラ・フィーバー |
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1999年 | ラパラ・ジャパン設立 | |||||
2000年 | VMC社吸収合併 | |||||
世界的な伝統を持つフランスのフックメーカーであるVMC社を吸収合併。 これにより、飛躍的にラパラ純正フックの性能が向上。 (この吸収合併以前にBLUE FOXとSTORMを傘下におく) |
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2005年 | ラウリ・ラパラ生誕百周年とLR100発表 | |||||
ラウリ・ラパラ生誕百周年を記念して、ラパラ一族のみが 使うことを許されていたラウリの秘宝、LR100を限定発売。 エスコ・リスト・エンショが二色づつフェイバリットカラーを選び 各人のサインがプリントされている。全六色。 |
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*この歴史年表は様々な資料に基づき作成しております。内容と異なる資料がございましたら ラパラ・ジャパン(株)までお申し付け下さい。 |